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エウロ

ガイア連邦共和国の自治区のひとつ。ユーラシア大陸の西側、いわゆる西ヨーロッパを版図とする。自治区首都はジュネーヴ。640年現在、エウロは政治体制として皇帝を頂点とする封建制度を採用しており、その居城のあるジュネーヴは帝都とも称される。

エウロはユーラシア自治区のひとつであったが、179年に当時のユーラシア自治区議会で決議されたユーラシア分割統治法に基づいて分離され、成立した。その後のトッカルやシノニア、ベリスの例とは異なり、エウロの分離は平和裏に行われた。なお、成立当初のエウロ自治区政府は民主的な体制であった(この資料では「旧自治区政府」と呼ぶ)。

ユーラシア分割統治法では当然他の3自治区についても分離が予定されていたが、境界線の調整などに手間取った挙句、内戦へと発展(第二次ユーラシア内戦)。既に分離済みで直接には関係がなく、参戦しなかったエウロは特需に沸き、栄華を極めた。その一方で貧富の格差は増大し、貧困層の不満が自治区内の各地で渦巻いていた。そんな中、利益を優先する大手商社が国内向け物資をも内戦を戦う各勢力に販売し始めた。商社が相次いで史上最高益を上げる一方で物価は高騰し、食料を含む様々な物資が庶民レベルでは欠乏していった。さらに旧自治区政府がそういった自治区内事情を後回しにして内戦への介入を決めたことで、市民の怒りが爆発。各地で暴動が起き、ついには内乱へと発展した(エウロ内乱)。

旧自治区政府は内乱の鎮圧にあたったが失敗し、連邦政府へ事態の打開を要請。だが、北アメリカ暴動への対応で手一杯の連邦政府は有効な手を打つことができず、内乱は拡大する一方だった。243年には、とうとう旧自治区政府が崩壊。このとき有力な政治家のほとんどが成立したばかりのタウラビア自治区へと亡命し、混迷の度合いはますます深まっていった。ここに至って連邦政府は事態収拾に本格的に乗り出し、内乱鎮圧のために軍を派遣した──この頃には北アメリカ暴動がタウラビア自治区の成立によって終結していたためである。このとき派遣軍の司令官に任じられたのが、後のエウロ初代皇帝となるヴィンセント・アヴァロン中将であった。内乱鎮圧後、エウロの実権を掌握したアヴァロン中将はまず自らを終身独裁官とし、さらにその役職を皇帝と改称した。このプロセスは民主的な手続きのもとで行われたため、連邦政府は介入することができなかった。

皇帝ヴィンセント1世は、帝位継承者を皇帝のみが指名できるものとして事実上の世襲とした。また、鮮やかな紫色の瞳を発現させる「高貴なるスミレ色(high-born violet)」と呼ばれる特殊な形質を自らの遺伝子に埋め込み、帝位の証とした(ヴィンセント1世自身は生まれつき珍しい紫色の瞳を持っており、それをより明瞭かつ確実な遺伝形質とするべく手を加えたといわれている)。歴代皇帝はすべてこのスミレ色を受け継いでいる。「高貴なるスミレ色」を持つ者がひとりもいない世代が出現したときのことを考慮してエウロの封建貴族には帝位継承順位が設定されているが、この形質はそのすべてに優先するとされている。

アヴァロン朝の成立当初は皇帝を頂点とする中央集権制であったが、3代皇帝の頃、支配基盤強化のために皇族を各地に封じるようになり、現在まで続く封建体制が確立された。なお、自治区議会は解散された訳ではなく、皇帝の諮問機関として存在している(一院制、任期10年、納税額による制限選挙)。

ヴィンセント・アヴァロンが独裁を決意したのは、疲弊したエウロ自治区の一刻も早い復興を目指したためであるといわれている。事実、内乱によって衰退した経済は彼の治世の下で急回復し、その繁栄は比較的長く続いた。この事実がなければアヴァロン皇帝家の支配基盤はずっと脆弱なものとなっていただろう。ヴィンセント1世はエウロでは英雄視されており、現在も皇帝家を批判する庶民はほとんどいない(一方、直接の領主である封建貴族には不満の矛先が向けられている)。

しかし気候変動による海水面の上昇が450年頃から始まると、エウロには暗い影が落ち始める。沿岸部のほぼ全域が海抜マイナス地帯となり、多くの都市が内陸への移転を迫られた。480年代中頃からは水没する地域が出始め、エウロの経済は次第に衰退に向かった。それでも財政的努力によって立て直しを図り、再び経済発展に向かいつつあったエウロに致命的なダメージを与えたのは、616年のシノニア常温核融合炉の出力低下と、それに端を発する異常気象であった。沿岸部に加え南部や西部の気候の良い土地の多くが水没してしまった結果、エウロの産業と経済は壊滅的な打撃を受けた。これ以降、エウロは最貧地域へと転落することになる。そのような状況下でも封建貴族のほとんどは自分たちの生活を維持することを優先し、そのしわ寄せとして庶民は貧しい生活を余儀なくされている。近年では他の自治区への不法移民が急増しており、エウロ自治区政府の悩みの種となっている。

640年現在、エウロにある連邦の食料プラントの半数以上はエネルギー不足で停止しており(施設は連邦政府から無償貸与されるが運用は自治区の責任で行わなければならないため)、その上、農業に適した地域が封建貴族の別荘地や保養地となっているために、農業生産も行われていないに等しい。このため食料の生産量が他自治区に比べて極端に少なく、慢性的な食糧不足に陥っており、トッカルやシノニアからの援助物資に頼り切りの状態が続いている。他の自治区への輸出高も非常に低く、目立つのはワインと競走馬程度である。

伝統的に他の地域からの移住者が少なく、混血がほとんど進んでいない。自治区政府レベルでも比較的交流が少ないが、第六次世界大戦で共に戦ったトッカルとは深い関係にある。またローマカトリックの総本山を領内に持つためか、グラデーションズ教会関係者を下に見る傾向がある。

連邦評議会については各自治区間の利害調整機関と見ている。かつての内乱への対応が悪かったことから連邦政府に対する信用はあまり高くないが、一方で連邦評議会内での地位向上に自治区の命運がかかっているとも考えており、将来エウロを背負って立つ程の優秀な人材を評議員として送り込むことが多い。また、現体制維持のために、二名の評議員選出枠のうち少なくとも一名は帝室から出すというのもしきたりとなっている。選出方法は皇帝による直接の指名か、議会推薦の皇帝による承認のいずれかである。